Minestrone[ままごと]

公現祭を一週間も過ぎれば、街はすっかり日常を取り戻す。祝祭の風景も年越しのバカ騒ぎも何もかも、すべてはまるで幻想に過ぎなかったかのような顔付きで、イルーゾォを取り巻く世界はもう『日常』の表情をしていた。
それはフーゴとふたりで暮らす、しょっちゅうエレベーターが壊れている古いアパルトメントの最上階にある2LDKの小さな部屋も同じ。
少しだけ足元が冷えるキッチンは、それでもフーゴのいない一人きりのリビングルームよりは居心地が良くて、持ち込んだ本を読みながらのんびり夕食の準備を進めていたのだが、あとはもうフーゴの帰宅を合図に魚と付け合わせの野菜をグリルするだけ。
ミネストローネは弱火でとろとろ煮込んでいれば手を入れずとも勝手に出来上がる。
イルーゾォは溜め息を吐いて、バーチェアに座り直し本を開いた。
イルーゾォにとって、読書は現実逃避の手段の一つだ。
どうやらフーゴも相当な本好きのようで、書斎やリビングには常に『次に読むつもりの本』が溢れているからイルーゾォはいつでも誰かの物語に逃げることが出来る。
残念ながら、昔観た映画のように物語が『現実』となることはないが、ここは虚構の世界ではないのだから現実逃避は数時間だけで良い。
虚構の物語の向こうでは切り刻まれた野菜たちが鍋の中でゆらゆらと音を立てている。
その様子を一応確認して、イルーゾォは再び本に視線を落とした。
もう少し煮込んだ方が美味しくなる。
それは現世での母親との思い出、というより前世の記憶だ。
おぼろ気で頼りのない記憶ではあるが、誰か――おおよそリーダーであったリゾットか、料理に口煩かったプロシュートだろうが――から教わったはずのレシピ。
冷蔵庫や戸棚の中の余った野菜をすべて入れて、野菜によっては形もなくなってしまうくらいにとろとろに煮込みきったミネストローネはフーゴも気に入ってくれた料理の一つだから、イルーゾォはその記憶を残してくれた神様と、偉そうな態度で生意気を言う後輩に根気強くレシピを伝授してくれたリゾット、もしくはプロシュートに感謝している。
けれど、リゾットかプロシュートか、いずれにせよ、彼らがそんな些細なことを覚えているかどうかなど分からないから、その感謝を実際に伝えたことも伝えるつもりもなかったが。
静かな室内に、野菜がスープに溶けていく音とページを繰る乾いた音だけが響く。
火を使っているせいか、キッチンは思ったほど寒くはないし読書が捗る。けれども、なんだか時間の流れを実感できない。
フーゴは疾うに『日常』に帰ってしまったというのに、自分だけが、まだぼんやり過去の中に取り残されてしまっているような気がして仕方がない。
自分も、フーゴやかつての仲間たちのように自宅で完結出来る仕事ではなく、外に出て行けば良かったのかもしれない。けれど、マン・イン・ザ・ミラーが隣にいない今、外の世界に出ることが怖くて仕方なかった。
どうしても外の世界に積極的に出ていくことが出来なかった。
籠る場所が『鏡の世界』から『2LDKの小さな部屋』に変わっただけの話だ。
それでも、フーゴと恋人同士という関係に収まり、同棲を始めてからは昔よりは幾分マシにはなったつもりだが、彼らの目からしたらほとんど変わっていないのかもしれない。
スープの音が変化する。
再び鍋の中身を確認して、イルーゾォは火を止めた。
食べる前、魚をグリルしている間にまた火を入れれば良いだろう。
このスープのように、自身とフーゴも一緒になってとろとろに溶け合えてしまえればいいのに、と思いながら静かに溜め息を吐き、再び本を手にしたとしたところで、冷たい空気が動く気配を察して玄関の方へ顔を向けた。
扉の開く音ともに、ひんやりとした風がキッチンの方まで静かに吹き込む。
今日はもう少し遅くなる予定ではなかったか。
少しだけ訝しくは思ったものの、それでも帰宅したフーゴに一声を掛けようと、開こうとしていた本をおざなりに作業台に戻してキッチンから顔を覗かせた。
「Ciao!」の声に振り向いたフーゴの手には見覚えのある紙袋。
最近気に入っているドルチェリアのもので、パネトーネもそこで購入したから見間違えるはずはない。
その呼び掛けに振り返ったフーゴは少し息を整えてから、その紙袋をイルーゾォの方へ差し出した。
「これ、お土産です。」
差し出された紙袋は、イルーゾォがそうと見抜いた通り、最近気に入っているドルチェリアのものだ。
玄関の方へ向かったイルーゾォは、驚いた、というよりも戸惑ったような表情でそれを受け取った。
「ケーキなんて……
 今日なんかあったっけ?」
「いえ。
 でも好きでしょう?その店のケーキ。」
コートを脱ぎながら、フーゴは不審そうに眉をひそめるイルーゾォにそう言って優しく笑った。