『Q』は『Quartermaster』ではなく『Queen』の頭文字だったか、と思うことがたまにある。
例えば今がそうだ。
グリーンの瞳がベッドサイドに立つ此方を退屈そうに見上げていて、まるでベッドの上に来ようともせず棒立ちしている男を責めているようにも見えたが、ボンドは敢えてその期待にすぐに応えることなく、視線をベッドサイドの方へ逸らした。
ベッドサイドのランプは煌々と明るくて、これからこの部屋でセックスが始まる、とは到底思えなかったが、そもそも読書用の簡素なデザインのランプだ。相変わらず、この部屋の調度品は持ち主同様、合理的であること以外の目的を持つつもりはないらしい。
だから今回も、ここまでのお膳立てをしたのはすべてボンドだ。
それなりにムードを演出して彼にディナーを提供したのも、彼の愛猫たちの寝床を空調の効いた部屋に移したのも、シャワーで準備を終えた彼を此処まで――まさに『Queen』に対するそれのように――運んだのも、すべてボンドが勝手にやったことではあるのだが、当然のように彼はそれらの行動について礼や感想を言うつもりはないらしい。
ボンド自身が己の美学に基づき自分勝手にやったことだから当然といえば当然なのだが、真心の伴わない関係でも相手に対してそれなりに礼儀は尽くすべきだと思う。けれどきっと、そういう考えは彼のような若者からすれば『古い考え』なのだろう。
相変わらず退屈そうな目線を無視して、今度は窓の方へ視線を移した。
窓の向こうはカーテンのせいで見えないが、きっと暗闇が広がっている。
24時間前まで、この身体はロンドンの反対側にあった。
とても退屈な仕事で、美女もいなければ、美味しい酒も食事もない、ちょっとした書類を届けるだけという伝書鳩でも出来るような味気のない仕事だった。
とはいえ、毎度毎度、国家どころか世界の存亡を賭けて命を張らざるを得ないような危機が訪れることなどあり得ないことは分かっている。頻繁にそんなことが起こっていたら、それこそMI6エージェントの命どころか世界そのものがいくつあっても足りないであろう。そんな世界クソ食らえだ、とも思う。
そんな心持ちを抱えて帰還した男の気分を汲んだのか、積極的に誘ってきたのはQの方だったのだが、案外、今回の仕事に退屈していたのは『Quartermaster』の方だったのかもしれない。
実際、すべて完璧な形で返却された装備品を見た彼はあからさまに退屈そうに眉をひそめた。
ボンドはその表情を思い出しながら、ベッドの上で寝そべるQの上に馬乗りになって、改めて彼を見下ろした。
ベッドサイドのランプに照らされた、シャワー上がりのその顔は、やはり『Quartermaster』ではなく、『Queen』のそれだ。
『楽しませろ』と彼の退屈そうに光る瞳の奥でそう囁いているのが微かに、でも確実に伝わってくるのだが、ふいに彼の言う通りに事を進めるのも癪に思えてきて、ボンドは敢えて顔の輪郭をゆっくりとなぞり、赤い唇に触れた。
2人の間でこういう関係が始まった理由なんて、もう覚えていない。
「何故、オレだ?」
彼がそのつもりになれば他にもいるはずだ。
なんとなく口をついて出た呟きに、Qはその雰囲気に似つかわしくない、いつも通りのぶっきらぼうな声音で応えた。
「あなたが一番退屈しないから、ですよ。」
――なるほど。
ボンドは納得したように片頬を上げた。
あくまで僕が『Queen』であり、あなたは『Fool』に過ぎない、と彼が言うつもりならば、此方も全力で『Fool』としての役割を全うせねばなるまい。そうでなければ首を刎ねられてしまうのは此方の方だ。
明るいばかりでムードの欠片もない無作法なベッドサイドのランプを消した。
2人の間でこういう関係が始まった理由なんて、覚えておく必要はない。
ボンドは暗闇の中、退屈そうに自身を見上げているはずのQの白い首筋に顔を埋めた。