R.I.P.

アジトのリビングルームにはまだ勝負のついていないチェス盤が作業台の隅にそのまま残されている。
ソルベとジェラートが失踪するその直前まで勝負をしていたチェス盤である。
正確に言うと、試合は完全に放棄されていた訳でも動いていない訳でもなくて、ソルベならこう攻めたんじゃないか、とか、ジェラートならこう守りを固めたんじゃないか、とか、なんとなく思い付いたメンバーが気まぐれに駒を動かし続けていたので、彼らが遺したそのままの状態ではない。
初めに駒を動かしたのが誰だったのか。
もはや定かではなかったが、その盤上を見ても皆何も言わなかったし、片付けようと言い出すことも、ましてやそれを行動に移すこともしなかった。
もっと言えば、皆で示し合わせたかのように、それを話題に上げることすらなかったのだが、チェス盤の上は日々一進一退の攻防を続けていて、もはやソルベとジェラートの勝負を超えた戦況とも言える状況になっていた。
その日、最初に駒を動かしたのはホルマジオだ。
彼はいつも通り盤上を見つめてニヤリと笑うと、罠をひとつ追加してから、いつもと変わらぬ様子でアジトを出ていった。
盤上のその状態を見たイルーゾォは、幾重にも張り巡らされた罠を回避するように駒を動かして、静かに鏡の向こうに消えた。
プロシュートは、あまりにも作為的な盤上を見て溜め息を吐いてから、女王を盤上の中心へと動かす。
そんなプロシュートの横顔を見たペッシは、プロシュートの手には乗らずに駒を犠牲にして罠をひとつ解除した。2人は無言のままアジトの扉を開けた。
メローネもペッシと同じように駒を1つ犠牲にしつつ、さらに盤上に新しい罠を仕掛けてアジトを出ると、ゆっくりとした足取りでバイクに向かった。
ギアッチョはすべて罠だと分かっていて、敢えて相手の陣営に突っ込んでから早足でアジトを出ていくと、乱暴な動作で車に乗り込んだ。
最後に盤上を見たリゾットは、少しだけ笑った。
これでは勝負が付かないな、と呆れたように溜め息を吐きながら駒を動かして、もう何も残っていないアジトを静かに後にした。

*****

「ステイルメイト。」
薄く埃を被ったチェス盤を一目見て、フーゴが呟く。
暗殺チームのアジトと思われるアパートの一室が見つかり、ミスタと組織に復帰したフーゴの2人で調査に入った。
部屋の窓は少なく電灯も切れているせいか、昼間だというのに薄暗い。
部屋の中は全体的に埃を被ってはいたが、日常生活の痕跡がわずかながら残っている状態でもあって、部屋の主が何らかの理由で突然居なくなった事は明白な状況だった。
「は?」
ミスタが顔を上げ、フーゴの背後からチェス盤を覗き込む。
「……まだ動かせんじゃね?」
フーゴが溜め息を吐く。
「このまま勝負を進めていけば、白のキングは動かせなくなります。
 勝負は引き分けですが、そう持ち込んだ白の作戦勝ち、といったところかな。
 ただ……、僕の推察ですが、何人もの手が入っているように見えますね。」
「……ふーん。」
ミスタはさして興味も無さそうにチェス盤の前を離れると、リビングルームの埃だらけのソファに座った。
「埃が立つだろ。」
フーゴの嫌味など気にすることもなく、ソファに寄り掛かり、首を回す。
「なーんもねぇな。」
まるで空虚が詰まっているかのように薄暗い部屋を見回してから、ぽつりとそう呟いて、溜め息を吐く。
彼らは、そして自分達は一体、何の為に命を掛けて戦ったのか。
ミスタにはその理由がよく分からなかったし、今も分からないままだ。
フーゴと2人、こんな埃だらけの部屋の調査に送り込まれたものの、きっとこの先も答えなんか手に入ることはないのだろう、と思っていた。
けれど、たった数日間の間に経験したあの高揚感を、これからの人生で2度と経験することは出来ないだろう。
ミスタはそうも思っている。
チェス盤の前に立ったままのフーゴに声を掛ける。
「お前はどう思うよ?」
それは曖昧な質問だったが、フーゴはいつものように声を張り上げることもなく、静かに「さぁ」と首を傾げるようにしただけだった。
ミスタの質問には答えずにチェス盤の前を離れると、今度は興味など無さそうな表情でリビングルームの壁に飾られた大きな鏡を見つめる。
埃は被っていたが、すぐ傍に置かれているボロボロのソファの扱いとは異なり、大事に扱われていたことは一目で分かる状態だった。
部屋の有り様は、明らかに日常生活が突然断絶したことを示していたが、面白いくらいに、ここで生活していたはずの人々の素性なり人となりを具体的に指し示すようなものが残されているようにも見えなかった。
おそらく、そこのチェス盤とこの鏡以外に。
黙ったまま鏡を見つめるフーゴのその横顔を見て、ミスタは溜め息を吐き立ち上がると、何も言わず、チェス盤の様子を写真に収めた。