卵の中は夜の底

薄暗く狭いアパートの一室で、イルーゾォは目を開けた。
のっそりと身体を起こし、アクビをしながら固いベッドの上で伸びをするイルーゾォの姿に気が付いたメローネが、寝室と続くキッチンから声を掛ける。
「あ。
 おはよー、イルーゾォ。」
薄闇の中にイルーゾォの白く細い上半身が浮かび上がっている。
キッチンの小さな明かりが、その白くなだらかな稜線の上に鎖骨や肋骨、へその影を作って、妙な色香を放っていた。
小さなダイニングテーブルの椅子に座って形だけの夕食を摂りながら、その様子の全てをぼんやり見ていたメローネが口を開いた。
「やっぱさぁ、イルーゾォはウリの方がラクに稼げるんじゃない?
 用心棒の真似事とか、身体きつくない?」
「……ウリするとか、考えただけで精神的に耐えらんねぇ。」
イルーゾォのいつも通りのつれない返事に、メローネはナッツを摘まみながら、へらっと笑う。
「潔癖症だなぁ、イルーゾォは。
 まぁイルーゾォの力なら、そーゆー仕事の方でも稼げるもんね。」
そう言って笑うものの、メローネ自身、薄汚い奴らの精液まみれになっているイルーゾォの姿など見たくはない、と思っていた。
イルーゾォには精液よりも血の方が似合う。
真っ赤な返り血を浴びるイルーゾォはきっと、壮絶な色気を放つに違いなかった。
メローネは、ギアッチョもそう思っている、と、そんなことを話した事もないのにそう確信している。
メローネの言葉に返事することなく、イルーゾォは近くの椅子に放置されていたTシャツを被り、落ちていたジーンズを立ち上がりながら履いて、やはり近くに落ちていたパーカーを羽織る。
ゆっくりとダイニングルームに入り、メローネの正面に座った。
「ギアッチョは?
 つか、お前今日は『営業』行かねぇの?」
「んー……
 先週から『野良』に対する取り締まり厳しくってさぁ。
 なんか知らんけど警察もパッショーネの奴らもうるさくて……、ちょっと休暇。
 ……まぁ実を言うと、先週末の客がちょっとヤバいヤツでさ。
 身体休ませるのにちょうど良いかなって。」
メローネはそう言いながら、自分が使っていたグラスに水を注いでイルーゾォの前に置く。
「ギアッチョはもう仕事行ったよ。
 今度は売春小屋の用心棒だってさ。」
「ふぅん。
 ……持つのかな。」
イルーゾォの小さな呟きに、メローネは「Boh……」と小さく笑ってからナッツを口に放り込む。
イルーゾォもメローネの反応に小さく笑い返して、テーブルの上に置かれていたタバコのパッケージを手に取るが、生憎とそれはもう空っぽだった。
少しだけ眉をひそめ舌打ちをしながら空き箱を、くしゃり、と潰すと、それをゴミ箱に放り投げる。
それは音もなく、まるでブラックホールのようなゴミ箱に吸い込まれていった。
気を取りなすように溜め息を吐いてから、イルーゾォは正面に座るメローネの方に顔を向ける。
「……つか、お前の方が身体キツいんじゃないのか?」
イルーゾォはメローネの目を見据えながら、目の前に置かれたぬるい水を飲み干した。
メローネは笑いながらイルーゾォの視線から目を逸らし、話題を変える。
「もっと飲む?
 イルーゾォも今日から新しい仕事だっけ?」
「……あぁ。
 いつも通り、ヤクの取引現場。」
あからさまに話題を変えたメローネに、イルーゾォは乗った。
このまま2人で話を続けたところで、どうせ誰もが救われる答えなど出せないのだから、それで良い。
不必要に相手の領域に踏み込まないことが生きていく上で必要なスキルであることくらい、イルーゾォもメローネも疾うに知っていた。
「働くねぇ。」
メローネが乾いた声で笑う。
イルーゾォ、メローネ、ギアッチョの3人がスラムで肩を寄せ合うように暮らすようになって、もう2年が経つ。
特に、知り合いだった、という訳ではない。
いつもスラムの端っこで、他人と群れる事なく過ごしていた3人が、同じ場所で何となく顔を合わせているうちに打ち解け合い、3人で共同生活をするようになった。
打ち解けるようになった切っ掛けは、3人以外には見えない『相棒』だった。
互いに互いの過去の事は知らない。
目の前のメローネもここにはいないギアッチョも、自身の事について、その不思議な『相棒』の事以外に積極的に語ることはなかったが、イルーゾォ自身も同じだったのでお互い様である。
目標は3人で世界一周することで、その為に、3人は協力し合って日々を暮らしている。
バカげた夢だ、と、3人とも分かってはいたが、薄暗く埃っぽい部屋の中でその夢は大事な宝物だった。
3人の細やかなる共同生活は、所詮はその日暮らしの綱渡りのようなものであり、薄暗く、決して明るいものではない。
それでも、イルーゾォにとってこの2年間は、これまでの人生で――たった17年の人生ではあるが――唯一の心休まる穏やかな日々だった。
でも。
でも、いつかきっと、破綻してしまうに違いない。
それが明日になるのか、一年後になるのか。
どういう形で破綻するのか。
イルーゾォには分からなかったが、ただ破綻する事だけは分かっていた。
でもそれはきっと、メローネやギアッチョも気が付いている事に違いなかった。
ナッツを2~3粒摘まんで、イルーゾォが立ち上がる。
「もう行くの?」
メローネの問い掛けには答えず、イルーゾォは無言で殺風景な壁に掛けられた鏡の前に立つ。
――いつか本当に、3人で世界一周出来たら良いなぁ。
イルーゾォはそう思いながら、「A domani!」と笑うメローネに小さく笑い返して、静かに鏡の向こうに消えた。