竜胆 - 2/2

02

ギアッチョは静かに車から下りると、いつものように上を見上げた。
いつも通り、美しく晴れ渡った空を背景に山々が目の前にそびえ立っている姿に今更何を思うでもなく、視線を町に戻すと、足早に目的地へと向かう。
結局あの後、ギアッチョは逃亡先をアルプスの麓の小さな町に選んだ。
常に外国人が適度にいて、かといって人が多すぎることもなく、静かに暮らせそうな場所を現実的に選んだ結果である。
小さな町を出て少し先にある小さな山小屋で暮らしながら、登山道の整備をしたり荷物運びをしたり、余暇には読書をしながらその日暮らしを続けている。
稼げる仕事ではないが、暗殺をやっていたところで派手に稼げた訳でもなかったのだから変わりはしない。むしろ静かに過ごせる分、二年前よりも遥かにマシだった。
買い出しの為に久しぶりに出た町の中心部はすっかり季節が変わっている。
真っ青な空がやたらと近い。
イタリアでは見たことのない空だ。もしかしたら頭上に広がっていたこともあったのかもしれないが、少なくともギアッチョの記憶にこんな空は存在しなかった。
簡単な買い物を済ませて小さな商店を出ると、トレッキング目的らしい外国人観光客の姿が目に入る。
アルプスの麓の小さな町も、この時期になると観光客が増えてくる。どのルートのトレッキングコースを選んだとしても、今頃は花々が咲き乱れていることだろう。
ギアッチョはその様子を自分の眼で確かめたことはない。
一度だけ深夜のテレビプログラムでその花を見ただけだ。
一緒に見たのは、確かベイビー教育中のメローネだったか。
画面に映し出された紫色の竜胆を見たメローネが一言だけ「イルーゾォみたい」と静かに呟いたことを何故か思い出しながら、ギアッチョは警戒しつつその集団の横を通り抜け、車の元へと急ぐ。
そろそろ潮時なのかもしれない。
次は何処の町に行こうか、などと考えながら車に乗り込むと、息を止めて、静かにキーを回す。
何事もなくエンジンが掛かる感触に、ギアッチョはゆっくりと一息吐いた。
いつ死んでも構わない、と考えているのは嘘偽りない本心だったが、なんとなくまだ死ねないような気もしていた。その感情が矛盾していることは理解している。
きっと何処かで自分と同じように隠れて暮らしている――文字通り『隠れている』とは限らなかったが――仲間たちもそう考えているだろう。
そう自分自身に言い聞かせるようにその思いを反芻させながらハンドルを握り、車を走らせる。
帰り道も何も起こらない。
いつも通り、ギアッチョの運転する車のエンジン音だけが周囲に響いている。
しばらく道なりに走らせて、小さな小屋が見えてきた、と同時に、ギアッチョはすべての神経を研ぎ澄ませて周囲の気配を探り始める。
この二年間、ギアッチョが考えていたように暗殺者――それはきっと自分等の後釜に違いなかった――が目の前に本当に現れることは無かった。
だが、それが出てきたところで、抵抗するかどうか分からなかった。
死ねないような気がしている一方で、本音を言えば、もう戦うだけの理由がない、というのもまた事実なのである。
それはどちらかと言えば、暗殺チームの一員として暮らしていた時の日々の生活の『癖』の一つでしかなく、頭では分かっていても、どうしてもその癖を改めることは出来なかった。
いつも通り、何の気配もないことを確認してからガレージに入り、車を下りる。
その足で郵便ポストへと向かったギアッチョは、郵便ポストの中身を取り出しながら確認をして、律儀に頭の中で仕分けをしていく。
請求書やDMなどの郵便物に混じって、ふと懐かしい鏡文字が目に入ったギアッチョは、その手を止めた。