のんびりと歩く街路は優しい日差しが降り注いでいるとはいえ、季節相応の冷たい風が吹き抜ける。
だが、specchioの気分は悪くなかった。
悠々と歩くリゾットを見つけた町の人々は気さくに、けれど、どこか敬意を払うように挨拶をしながら擦れ違っていく。その様子を見ながら、満足そうに息を吐く。
黒猫、というだけで迫害されがちなこの国で、この界隈ではリゾットは一目置かれた存在なのだ。
さすがは『子どもの守護者』である。そのお陰か、連れ立って歩くことの多いspecchioも近辺の人たちに顔を覚えられつつある。
ただspecchioの場合は自他ともに認める艶やかな毛並みと首に鈴の付いた赤いリボンを巻いているせいか、『余所の金持ちの飼い猫だ』と思われて、皆どこか他人行儀ではあるのだが。
今日はリゾットから『一緒に確認して欲しいことがある』と誘われ、死者の日以来、久し振りのお散歩だった。
目的地は特に聞いていないが、リゾットからの頼み事と言えば、子どもに関することか、もしくは例の『何か』に関することが多いので、今回もそんなところだろうと予想は付いている。もしかしたら、両方かもしれない。
路地を一つ入って、その入り口近くにあるアパートへ入るリゾットの後ろをspecchioも優雅に付いていく。
商店街にも程近いこの街区は、いわゆる一般庶民が多く住んでいる地域だ。
堂々と名乗れる職業ではないものの――ここらの住民はフーゴのことを詳しくは知らないだろうが――裕福な暮らしをしている黒猫である、と認識されているからにはきちんとそれに見合った所作を、とはプロシュートの説教だが、specchioとしてもバカにされたくはないので、その教えは忠実に守っている。
そのちょっとわざとらしくも見える動きにリゾットが少しだけ笑ったような気がしたが、それは見なかったことにした。
青いリボンが飾られた玄関扉を横目に、リゾットに続いてspecchioもバルコニーに忍び込む。
立ち止まり座り込んだリゾットの隣にspecchioも同じ態勢で座り込み、同じように窓の向こうへ視線を向けた。
specchioの予想通り、窓の向こうに置かれたベビーベッドの中では小さな赤ちゃんが気持ち良さそうに眠っていて、specchioは一瞬だけ動きを止めた。
ナランチャだ。
生まれたばかりの小さな赤ちゃんだが、『イルーゾォ』の勘が、『この子どもはナランチャだ』と告げている。
声を掛けようとして振り向いて、specchioはその口を閉じた。
視線の先にいるリゾットは、優しい眼差しで窓越しに赤ちゃんを見つめている。
声を掛けるのは野暮だと思った。
静かに、そして再び、赤ちゃんの寝顔に視線を落とす。
自身に止めを刺したのは、謎の青年でもブチャラティでもなく『ナランチャ』だった、とリゾット本人からそう聞いている。
イルーゾォとしてはその時点でもうこの世にはおらず、当然その場に居合わせることもなかったから実際のところを判断しようがないのだが、本当にそうならば、自分を殺した相手を守ろう、と言うのだから、お人好し――猫なので人ではないのだが――にも程がある、と思う。けれどすぐに、自身もフーゴと共に暮らしているのだからリゾットのことは言えないか、と思い直した。
暗殺チームだったとか敵味方だとか関係なく、現在の自分らはただの『gatto libero』であり、『リゾット・ネエロ』と『イルーゾォ』ではなく、『子どもの守護者』と『specchio』として生きているのだから、あとはもう猫としての生をまっとうするだけである。
赤ちゃんを見つめていたリゾットがspecchioの方へと振り向いた。
「この子の傍には何もいないか?」
実は、specchioにはいつも見る『何か』とは異なる、死に神のような『何か』が見えることがあった。
当然イルーゾォだった時からそれは見えていて、暗殺対象にそれが憑いていたことも度々あった。
だがいつもの『何か』とは違い、必ず見えるわけではないし、見える時には大体もう手遅れ。そして、それはいつも同じ姿、という訳ではなかったのだが、自身が止めを刺すことになった際にはお礼のつもりなのか、『挨拶』されたことも一度や二度ではなかったから、もしかしたら、そうだと認識出来なかっただけで『顔馴染み』もいたのかもしれない。
婆さんからは『それには絶対に手を出すな』と教えられてきたから、仮に見えたとしてもspecchioには何も出来ない。リーダーもそれを知っているはずなのだが、きっと安心したいのだろう。その気持ちは分かる。
「いないよ。」
実際、この赤ちゃんの傍、窓の向こうの室内にspecchioがその『何か』の気配を感じることはなかった。嫌な感じもしない。
当面の間は「大丈夫だ」と断言してしまって良い、と思われた。
もちろん、先のことはリーダーにも、この子の両親にだってこの子自身にだって分かりはしない。
specchio自身、未来を予知したことなどないし、占いだって信じない。
――でもたぶん、この子は大丈夫だ。
何故かそう確信したのだが、specchioはそれ以上何も言わず、リゾットの方へ振り向いた。
specchioの瞳を見て、リゾットも納得したらしい。
安心したように息を吐いて、窓辺に座り直した。
そんなに緊張していたのか、と半分呆れながら、specchioも緊張を解くように首を回す。
プロシュートやメローネのように鈍感過ぎるのもどうかと思うが、それにしたって『何か』なんて本当は見えない方が良いに決まっているのだ。
玄関の方が少しだけ騒がしくなり始めたタイミングでリゾットが立ち上がる。近所の誰かがお祝いに来たのかもしれない。
黒猫2匹の事情も大人の事情も知らない赤ちゃんは、相変わらず、のんきに眠り続けている。
またギャングになってしまったりするのだろうか、と考えながらリーダーの横顔を見て、『子どもの守護者』がいるのなら大丈夫だな、と一人結論を出した。
フーゴにも知らせる必要は――その手段があるとも思えなかったが――あるまい。
小さな身体全身に幸せを詰め込まれたこの子どもは、フーゴのことを知らない世界で生きるべきだ。
もちろん、フーゴもそれを知る必要はない。
specchioは、ベッドの中で柔らかそうなブランケットにくるまれ、健やかに眠る赤ちゃんの寝息につられるように大あくびをした。