部屋で何するでもなく参考書をパラパラと捲る恋人の様子を横目で窺った。
結局、夏休みに入ってから、土方は予備校をサボってはこのオンボロアパートにしょっちゅう来ていた。電気代は食う癖にろくに効かない、古びたクーラーと扇風機しかないこの部屋に。
特に何かする訳ではない。
参考書をパラパラと流し読みしたり、ふとした合間にキスをする位だった。
教師の癖に受験生をふらふら遊ばせていることに、罪悪感が無くもないが、土方は元々そういう生徒だ。
タバコは吸うし、授業はサボるし、どうしようもないクズ男を恋人にする癖して、テストの成績だけは抜群だった。
だから、予備校をサボる位どうでも良いだろう。
それよりもこうして2人、同じ空間で同じ時間を過ごす事の方を優先したかった。
土方も何も言わないが、きっとそうなのだろう。
単純にサボりの場所として、ちょうど良かっただけかも知れないが、そこは自身に都合の良い方に取ることにした。
「ドライブ行かねぇ?」
そう誘ったのは、銀八からだった。
夏祭りに誘う事にすら躊躇した癖にドライブかよ、と銀八は心の中で自嘲する。
ただ何か、このまま夏休みが終わってしまうことに、何となく哀愁を感じてしまった。
それだけだった。
土方は少しだけ驚いた様子で、銀八の顔を見る。
「ドライブって、いつ?」
彼がそう言うのも無理はないだろう。
今日は8月30日で、既にもう夕刻だった。
「いつって、これから。
深夜の当ての無いドライブもけっこう良いぜ。
土方くんなら、明日1日位お勉強サボっても余裕でしょ。
こないだの模試も全国で30番以内だったんだって?」
「・・・模試でビリだったとしても、先生とのドライブ取るよ。」
先月の夏祭りはあっさり断った癖に、無表情のままそう言って、土方は窓の外の深くなり始めた夕闇に目を凝らした。
「先生、車持ってんの?」
「ま、一応な。オンボロだけど。」
銀八は立ち上がると、土方を促すように手を伸ばした。
2人並んで外に出てみると、湿度の高い夕闇が纏わりつくように広がっていた。妙に古めかしい街灯に虫が集まっているのが横目に見えた。
「あちぃなぁ。」
土方は銀八の半歩後ろを何も言わずに付いていく。
銀八の呟きは夕闇に呑み込まれていった。
近所の駐車場に付くと、銀八は「アレ」と小さな車を指差した。
「・・・趣味は良いな。」
ポツリとそう言う土方に、銀八は「どーぞ」と助手席のドアを開ける。
「しばらくは暑いけど、我慢な。
部屋のクーラーよりゃ効くから。」
そう笑い掛けて、銀八は運転席に乗り込む。
シートベルトを掛けながら、音楽は何でもいいと言った。
一世代も離れているのだから、銀八がよく聴く音楽など土方には分からないだろう。
だったら土方が好きなものを流せば良い。
そういうつもりで土方に任せたのだが、銀八の意に反して、流れてきた曲は銀八が懐かしいと思う歌声だった。
「・・・土方くん、随分渋いの聴くね。」
「そうか?
夜に似合うかなと思って。けっこう好きなんだ。」
少し気怠く甘い歌声がカーステレオから流れてくる。
何だかよく分からない地下アイドルの曲とか流れてきたらどうしようか、と思っていたのだが、その心配は杞憂に終わった。
少し安心して、銀八はエンジンを掛ける。
車は静かに走り出した。
すぐに首都高に入って、都心の夜景のど真ん中を走り抜ける。
東京の夜景を上空から撮った写真集を見たことがあるが、首都高はまるで東京の血脈のように、美しく光る流線を描いていた。きっと今、自分達もその一部になっているのだろう。
銀八は密かにそんな物思いに耽る。
土方は行く先も何もかも、銀八に任せるつもりのようで、黙ったまま、窓の外の光景を眺めていた。
余計な気を回して話し掛ける必要もなさそうだったから、銀八は気分良く車を走らせていた。
車内は心地の良い空間だった。
湾岸線に入る。
しばらくすると街の夜景は工場の夜景に切り替わった。
「なぁ、先生。」
不意にふと、土方が口を開いた。
「大人になるって、どういう事なんだろうな。」
「・・・土方くんは早く大人になりたいの?」
土方はその問いには答えない。
通り過ぎる工場の夜景が、その横顔をきれいに照らし出してはいたが表情までは読み取れなかった。
「オレは子供に戻りたいけどな。」
銀八が苦笑しながらそう言うと、土方は少しだけ表情を緩めて笑う。
「子供なんて、大人が作った幻だろ。」
「なるほどねぇ。」
銀八は急に真面目な表情になって、正面を見つめたまま続けた。
「じゃあさ、大人だって子供が作った幻なんじゃねぇの。」
ヘッドライトのその先はまっ暗闇だった。