ふと手を止めて、銀八は本棚を見上げた。
本が1冊、抜けていることに気が付いた。
ペンを置いて立ち上がり、その不自然に空いた空間を確認する。
確かここに置いていたのは・・・
かなり分厚かったこの本を、わりとよく読んでいた彼の横顔を思い出して、銀八は大きなあくびをした。
犯人は、おそらく彼だろう。
放課後の国語準備室、週末のおんぼろアパートの一室。
大したデートも出来ないまま卒業させてしまった恋人に、せめてもの餞になるのなら、それはそれで良かったと思うことにした。
そもそも、学生時代に購入したその本を、銀八はもう何年も読んでいなかったのだった。
本を読んでいる時の、伏し目がちな瞳に睫毛の影が掛かるのを見るのが好きだったのは、疾うに昔のことのように思えて、自嘲気味に笑う。
もう此処にも彼処にも、彼が来ることもないだろう。
もうふたりきりで会うことも、言葉を交わすこともないだろう。
何度もキスを交わしたこの部屋で、そんな未来をふたりで選んだのだから。
本があったはずの場所、今はもう無い本の背表紙に触れるように、ぽっかりと空いたその空間に、銀八は手を伸ばそうとして、動きを止める。
開け放っていた窓から、沈丁花の香りに混じって煙草の香りがした気がした。